Mar 25, 2012

breathing

それは一言で言えばハルシネーションへの興味だと思う。もっと言えばLSDによって引き起こされるハルシネーションだ。(LSDでなくても他の薬物や方法においても同じハルシネーションは引き起こされるのかもしれないけれど)LSDによってどんな幻覚が引き起こされるのか聞いたとき私はとても興奮した。普段動かないはずのものが呼吸し、時間の感覚が喪失あるいは鈍くなる。それはまるで万物に魂が宿るといった宗教の教えと違わない様にも思えた。
厳密に言うとそれは呼吸ではないのかもしれない。LSDの発明者Albert Hofmannは彼の著書の中で、彼自身が実験により体験したLSDのハルシネーションについての記述においては呼吸という言葉は使っていない。けれどもちろん皆が全く同じ幻覚を見るわけではない。そこには個人の状態や環境による影響がある。自分の心理状況、思考、不安や欲望といったものが自分の外の世界に反映されるとしたら・・その意味において内側と外側、感覚と対象の間の境界線は限りなく0に近づき、いままで感覚の対象だと思っていた世界が自分と一つになる。私にとってそれは呼吸だ。
実際LSDによる体験は宗教体験のそれと似ているとされ、当時の多くの若者の心をつかんだ。(それがヒッピームーブメントの元々のきっかけだったと私は理解している。)
LSDを服用したからといって急に悟りを開けるわけにはいかないと私は思っている。けれどそこで見た景色というのはJungのいう原始心像に近い様な、私たちの現実とarchetype、潜在意識(あるとするならば)を結ぶ何かしら意味の深いもの、時に私たちの概念を覆すほどの力をはらんだ忘れがたいものに成り得るのではないかと私は思う。
要はあっちの世界とこっちの世界の間に立った時に見た風景(シーン)、その風景を通して自分のまだ見ぬ世界を思い出す事ができたらなというのが、言わなければならないとするならば私の作品への動機だろうと思う。そしてそれはうまくいけば他の人々とも共通するものであり、ここでもJungの集合的無意識やHarukiの言及する理論が証明される事になり、私はその可能性は十分にあるし、そうあるべきだと思っている。
そしてその意味においてmetaphor的システムあるいは概念というものが存在し、その風景と同じ様な役割を持つのではないかと思っている。
と、いうことは何も呼吸にこだわらなくてもいいのではないかという気もしてくる。けれどそこには私の亡き犬へのノスタルジーや、呼吸の神聖さに対する気持ちも含まれている。

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